DESIGNER
Junzo Sakakura
- BIOGRAPHY
- AWARDS
- LITERATURE
- INFORMATION
岐阜県生まれ。1927年に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業後、ル・コルビジェのコンペ案に触れて建築家を志します。若くして既に異色の経歴を持っていた坂倉は1929年より渡仏、パリの建築技術学校で設計を学んだ後に1931年よりコルビジェのアトリエに入所し1939年(1937年に一時帰国を挟む)まで彼の下で近代建築を学んびました。アトリエの重要なスタッフとして都市計画や住宅設計に携わり、1935年にはコルビジェ作品「マテの休暇の家」も担当しています。コルビジェのアトリエの片隅を借りて設計を手掛けた「パリ万博覧会日本館(1937年)」によってグランプリを受賞し一躍世界的評価を受け、建築家としてのキャリアをスタートさせます。日中戦争下の1939年に日本へ帰国し、1940年に坂倉建築研究所を設立します。在仏時にコルビジェのアトリエでの同僚だったシャルロット・ペリアンとの信頼関係から、商工省(現・経済産業省)の輸出工芸品振興のための顧問としてペリアンを日本に呼び寄せたのは坂倉でした。一連の仕事を通じて坂倉は人間のための住宅や家具の設計に取り組み「1つの有機体」としての建築、家具という考え方を深めました。それはすなわち「住居」を中心に捉えて人間のための「都市計画」を目指すこと、その方法論として「清潔な構造」と「全体の調和」を求め「伝統の技術と法則」を取り入れることでした。戦後の渋谷、新宿、難波などの公共都市計画や交通空間の設計、神奈川県立近代美術館や東京日仏学院をはじめとする建築作品、1957年、1960年のミラノ・トリエンナーレ日本室展示など数多くの建築を手掛け、およそ30年間にわたって日本の伝統と新しいモダンの形を融合させ、時代に適した現代性を追求し続けました。坂倉の生涯は建築や家具の作品による創造活動に収まらず、彼のアトリエ(坂倉準三建築研究所)からは池辺陽、芦原義信、長大作、早川正夫など多くの建築家を輩出しており、日本の建築業界の人材育成にも貢献を果たした。その他、1957年には日本のグッドデザイン制度の初代選定委員長も務めています。多岐にわたる生涯の活動で坂倉が切り開いた精神と方法は戦後日本の建築、デザイン界に多大な影響を与えました。